あなたは不思議なにおいがするわ。


ぽつりと呟くなり私の襟首に顔を寄せて、彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。彼女がみじろぎするたびに長い髪が揺れ、かすかに香水をただよわせる。私としてはそれの方がよほど不思議だった。それはなにか花のにおいで、甘ったるくて妙に鼻につくのだが、どういうことか、不愉快というわけでもない。名状しがたいその感覚に思考を奪われていると、唐突に、うなじに鈍い痛みが走る。


「…シャルロット!」


ぺろりと舐めとられた瞬間にそこがひどく痺れ、血が出るほど噛みつかれたのだと理解する。思わず声を荒げるのだが、彼女はわるびれもせずにいたずらそうな笑みを浮かべるばかりだった。


「古い本、インク、ラベンダー」
「…なんの話だ」
「ねえ、煙草は吸うの、あなた」
「吸わない。それで、なんの話なんだ」
「じゃあ…」
「シャルロット、私の質問に答えてくれないか」


いらだちを隠さずにそう言うと、あなたのにおいよ。いったいそれ以外なにがあるのかとでも言いたげな口振りだった。やわらかくて、やさしそうなにおいよ。どこか楽しげな様子に、においって、君は動物か。やや呆れながら言葉を返すも、彼女は聞いていないらしかった。煙草じゃあないならなにかしら、なんだか煙たい気はするのよねえと、その煙とやらの正体にしきりに首をひねっている。


もしかして、これじゃあないか。ふと思い至って、利き手の袖口を彼女に差し出す。なに、と訝るその鼻先に布を近づけてやると、しばらくして、ああ、そう、これよ。わずかに明るい声を上げた彼女は、でもいったいなんだったかしら、とすぐに眉をひそめた。


「…硝煙だと思うが」


それ以外の煙には心当たりがない。くんと自分でも袖口をかいでみて、たぶんもなにもなくそれだろうと確信する。なんにしても随分と染みついたものだ。洗っても落ちなくなるほど銃を撃ったような覚えはないのだが。そんなことを思っていると、納得したように小さくうなずいた彼女が、また襟元に鼻先を埋める。いったい君はなにをしてるんだ。軽く額をこづいて引き離すと、機嫌のわるそうな表情が目に入った。


「なによ」
「君こそなんなんだ」
「だって、これが好きなんだもの」
「頼むからよしてくれ」
「減るものじゃあないでしょうに」
「私の神経がすり減る」


今度は眼鏡を奪い取ろうとし始めた手から、首を反らせて逃げる。軽く頬を膨らませる様に、さといくせにときどき妙に子供みたいな娘だな、という感想を抱いた。いや娘といっても外見上の話であって、正確な年齢は知らないのだが。


「…君は香水のにおいがする」


話題を逸らせようとした言葉に、彼女の目が細められた。香水、ねえ。小首をかしげ、気のないふうに呟く。まるでなにか咎めるようなそれに、ああまずいことを言ってしまっただろうかと内心うろたえていると、どんな。とたんにうすく紅を引いた唇の端をつり上げて、彼女が言った。


「…甘ったるい」
「あとは」
「………まあ、嫌いじゃあない」
「なに、それ」
「詳しいことは。香水には縁がないもので、なんとも」


彼女の髪を一房すくいあげ、さらさらとこぼしてみる。ふわりと立ち上るにおいはやはり甘いばかりだが、ふとそこに、あきらかに香水ではないなにかが混ざり込んだ。それはかすかなものだった。しかし、ほんの一瞬香るだけで、脳裏に拭いがたい違和感を残すのだ。ひとたび気づけばそちらにばかり意識が向く。もはや花のようなにおいなど、少しも感じられなかった。


それはどうにも覚えがある、しかし、はたしてなんだっただろうか。いったいいつ、どこでかいだことがあるのだっただろうか。伸ばされた細い腕が遊んで首に絡むままにその背を抱き、肩口に顔を埋めてみた。やわらかな肌のにおいを深くふかく吸い込んで、そしてようやく合点がいく。


ああ、そういうことか。


ため息のような、声にならない呟きがこぼれた。なにが、と言う彼女に適当な返事をして、私はその背にまわした腕に、力を込める。


ちょっと、どうしたの、急に。わずかに動揺した彼女が、子供をあやしでもするように頭の後ろを軽く叩いてくる。やさしいそれが逆にやりきれなくて、どうしようもなく寂しくなった。ねえ、レイム。ひどく穏やかな呼び声に、しかし私は答えられなかった。なにも言わずに、ただ、逃げるように瞼を伏せる。


強くつよく掻き寄せた華奢な身体は、香水と泥と鉄錆の混ざりあったにおいがした。





月下香



(それでも)
(なにも知らないふりをしていてあげようか)


※補足
・泥→アヴィスの地面のアレ 鉄錆→血
・レイムさんはロッティがヤバいひとだと薄々感じてたのが確信に変わりました


ロッティの香水は月下香という設定です。花言葉は[危険な戯れ]。
あとレイムさんのラベンダーってのはリネンです。ちなみにこっちの花言葉は[疑い/答えをください]。
解説なしでも理解できる文を書きたいものだ…まずネタ選びに多大な問題がある(・ω・`)

 

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