おはようございますという挨拶にすら、違和感を覚えたのだ。いつもの時間に執務室に姿が見えず、まさかとは思いつつも彼の私室を訪ねたのだが、そのまさかであった。まだ勤務の開始時刻まで幾分あるが、普段の彼ならばとうに仕事にかかっているのではないか。彼は、どこか悪いのですかと問うても首を横に振り、曖昧に微笑むばかりである。はたしてこんな笑いかたを、彼はしただろうか。どうにも納得がいかず黙っていると、彼は空ろな声音で私を呼ぶのだ。


シャロン様。


こちらに、来てはいただけませんか。その言葉で、違和感は、確実な異変となった。不審に感じながら近づいていくと、彼の腰かけるベッドに、まったく寝転がった形跡がないことに気づく。そこに浅く腰かけたままの彼のすぐ前で立ち止まるなり、私は引き寄せられ、彼にしなだれかかるような格好で抱き込まれていた。


「…すみません…」


耳元でささやかれた声音のあまりの弱々しさに驚いていると、彼が静かに息をつくのが聞こえた。悲嘆とも後悔ともつかないそれは、いったい何を押し殺しているというのか、ひどく震えた、ただに苦しげな吐息であった。


すみません、シャロン様。


具体的に何がすまないのかはわからないが、繰り返される言葉に応える代わり、おずおずと彼の背に腕を回す。ぴたりと身体を寄り添わせると、体温と一緒にその心のうちを抜けてゆく冷たさまでもが伝わるように感じた。 ああ、と。知らずに声が漏れていた。唇を強くつよく噛みしめて耐えるばかりしかない、きっとそういうことなのだ、彼をこんなにも苦しめているのは。苦しんでいるのは痛いほどわかる、しかし私はそれを癒す術などまるで検討もつかないのだ。痛感するのは、ただただ己の無力ばかりだった。


「…レイムさん」


こんなに、そばにいるのに。しめつけられた胸が、きゅうと音をたてたようだった。


「苦しいです、レイムさん」


腕が、きつくて。感情の揺れに比例するのだろう強さで抱いてくる彼が、幽かにうろたえたようだった。まったく、こんなときでさえ私に気を使ってしまう彼ときたら! ふいに、いとおしさが込み上げた。激しいそれに突き動かされるまま彼の胸に頬を擦り寄せ、そのやわらかな空気を吸い込む。やがてもう一度、彼は私を抱き寄せた。ゆっくりと私の肩口に額をあずける彼が、小さく見えるようだった。





やさしい両手


inserted by FC2 system