私の執務室に飛び込んできたのは、見慣れぬ職員だった。彼は辞書ほどの小さな白い箱を抱えていた。ノックもなしに入るのだから余程急ぐのだろう、しかし状況の飲み込めない私はただ呆気にとられるばかりである。まさか新しい書類ではあるまいな、とあからさまに眉をひそめてやるのだが、彼が気づいた様子はなかった。


彼は、先日国境近くの村に派遣された任務団からの使者だという。村には違法契約者が複数人潜み、その襲撃を受けて任務団は壊滅状態だとのことだった。


しかし、増員の手続きなら、管轄は私じゃあないぞ。適切な管理者の名を教えるが、彼は動かない。どうした。詰問すると、箱を差し出された。受け取ってみた箱はいやに軽く、空なのではと思うほどだった。


任務団に、帽子屋がいました。


ためらいながら告げられたその一言をうけて、どうしてか私は背に電流が走ったような心地がした。箱に落としていた視線を使者に移す。それだけの行為にも、身体がぎしぎしと軋むようだった。


あいつが、どうかしたのか。


力を使うのに、いちいち私に話すわけもあるまい。まさか苦情か、いや何にしてもなぜ私に報告がくるのだ。まずは直属の上司か主家の人間に伝えるのが普通だろうが。


私の言葉に使者が答えるには、時間がかかった。しかしやがて、彼は短く、簡潔な一言を口にした。私には彼が何を言っているのかわからなかった。


それで、全部です。


言葉の通りだった。これで、この小さな箱の中身で、全部だった。彼の「全部」だ。擦り傷だらけの華奢な右手。見紛えるはずもない、それは、確かに彼の右手であった。



・・・



彼の傍にいるのは、初めはつまらない意地だったのだ。自傷行為を止めたら突き飛ばされて、怒鳴られて、腹がたったのかもしれない。私を見るなと彼が叫ぶたび、私は、彼が落ち着くまで、その隣に座りこむようになった。爪先で身体を傷つけるごと私が止め、突き飛ばされ、痣は確かに増えていったが、怖くはなかった、むしろ心配で、放っておけないと思ったのだ。抱えているものを少しでも軽くしたかった。ちゃんと笑えるようになってほしかった。子供騙しだって構わない、彼が泣くのを、見たくなかった。


しかし、結局、彼は幸せだったんだろうか。私がそばにいたことを、心の中ではどう感じていたのだろうか。一度も聞かなかった。聞けなかった。否定されてしまうのがひどく恐ろしかった。ばかばかしいことにばかり真面目な彼、いまだ自分を赦せずにいる彼を、苦しめてしまったのではないか。恨まれているのではないかと思うと、恐ろしくてしかたなかったのだ。だから答えはわからないままだ。今までも、そして、もうこれから先、ずっと。


「………ザークシーズ」


おかえり。


胸の奥の奥で、かしゃん、と、硝子が砕けるような、儚い音が鳴る。それはとてもかなしい音だ。小さなその音は、しかし、深くふかく胸をえぐった。彼はいない、もうどこにもいない。ただいまの代わりに響いたその音は、私に、唐突にそれを思い知らせるようだった。


「…おつかれさま」


彼を見送る覚悟など、できるはずがないと、思っていたのに。内心は不思議なほど穏やかだった。衝撃の大きいあまり、逆に何も感じられないのかもしれない。つまらない結論をくだして、私は、すっかり冷たくなってしまった彼の手に、飴玉をひとつ、静かに握らせた。





ファンタスマゴリア



(すこしだけくるしそうにわらうきみが)
(いちばんすきだった)



BGM:リンネ

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